うみべのいやし

田野浦に咲く青く透き通る花々と2人の笑顔 (前編)

「小さい頃、学校から家に帰ってきたら、親父からの書き置きがあって。『どこそこで仕事しようけん、手伝いに来い』言うて。学校が昼までの時には、帰るとお昼ご飯とその横に書き置きが置いちょうけん、ご飯を食べちょったら書き置きを見た思われるけんね。ご飯を食べんと遊びに行ったりね」

優しい顔で笑いながら小さな頃の記憶を話すのは、黒潮町田野浦地区でデルフィニウムなどの花卉を栽培をする農家・野並増己さん(64)。田野浦地区と言えば、町内では「花卉」というイメージがあるが、最初にこの地区で花卉栽培のハウスを始めたのが増巳さんのお父さんたちだった。

黒潮町田野浦地区でデルフィニウムなどの花卉栽培をする
野並増己さん(左)と妻・小寿枝さん(右)
ハウスの中に入れば一面に広がるブルーの景色

「母が元々夜須(高知県香南市)の辺りの出身でねぇ。向こうは花を作りよう人らがようけおって。親父は漁師をしよったがやけど、母がそんなところの出身いうこともあって、『花をしてみろうか』言うて始めたいうがは聞いたね。親父は漁師をしよった頃、大敷網で高知の東の方に行って、そこでお袋と知り合うてこっちにきたとか言うて。そこにきっかけがあるかもしれんね」

漁師だった増己さんのお父さんがお母さんと出会い、お母さんの出身が花の産地であったことがきっかけで漁師を辞め、始めた花卉栽培。ただ、増己さんは最初、家業を継ぐことはなく、町内にある障がい者支援施設へ就職をした。

「農大へ行ったがやけど、自分は障がい者の支援施設へ就職した。その頃は景気がすごくえい時やって、同級生らが、『なんで農業せんが?自分が好きなように休みも取れるし、年収が何千万もあるで』とか言うのを聞いて。『うわぁ、そんなこともあるがかぁ』ってね。けど、親父らがまだ若かったし、ゆっくりというか、まだえいかなぁって。それで、親父がもう農業できんってなった時に、自分も花をやろうと決めた」

増己さんが48歳の時だった。現在、増己さんとともに花を育てる妻・小寿枝さん(62)は、「なんで辞めるが?28年勤めて、退職まであともうひと息。もったいない」と、最初は反対したと話す。

「退職しなければ良かったと思わなかった?」という問いに対し、「思うたぁ」と真っ先に答えたのも小寿枝さんだった。増己さん自身も、「退職金はみるみるうちに減っていくし、再就職言うてももうできんしね。もう後には引けれんけんね」と当時を振り返る。

2人は決意した方向へと向かっていくため、花卉農家としての道を歩み始めた。

野並増己さん・小寿枝さん
黒潮町田野浦地区でデルフィニウムをメインに花卉栽培を行う農家。デルフィニウム以外にストックや露地品目の栽培も行っている。県外市場への出荷がメインだが、規格外のものは町内にある「にこにこ市」や四万十市のJA グリーンにも出荷している。

text Lisa Okamoto

-うみべのいやし