うみべのごはん

塩屋のえがお(前編)

かつて、生物は海から誕生しました。我々人間も海に住んでいた頃の記憶を宿して生きています。人間の体液や、母親の羊水は、古代の海水のミネラルバランスと酷似しています、人間一人一人、海を体の中に抱えながら生きているのです。
だから空気や水と同様、塩も人間にとって必要不可欠なもの、無いと生きてはいけないものなのです。そして、地球上の全てのものは長い時間をかけ、やがて最終的に海に還っていきます。そう、海は地球のスープなのです。
海から生まれ、海を抱えて生き、海に還る。この循環を私達は、とてもロマンチックに感じながら塩作りをしています。なので、私達が作る塩には循環や調和を意味する「丸」の字を充て、塩というかたちで土佐の海を丸ごと味わってもらいたいという願いとともに「土佐の塩丸」と名付けました。

(有)ソルティーブHP「土佐の塩丸のこと」より

37年ほど前、塩作りと田舎暮らしを求め両親と黒潮町へやってきた吉田拓丸さん。
現在、「土佐の塩丸」2代目塩守りを務める拓丸さんは、当時3歳だった。

塩の撹拌(かくはん)は毎日行う

 

生まれは大阪。

父はサラリーマンとしてその頃大阪で働いていたが、
「田舎での生活をしたい」という思いから、移住先を検討する。
奈良の山奥や鹿児島の離島など、複数の候補地がある中
「黒潮町」にその先を決めたのには、「塩作り」との出会いがあったから。

たまたま開いたミニコミ誌の隅っこに、「塩作りやらん?」
そんな募集を見かけたことがきっかけで、黒潮町にやって来る。
一回来てみると、「これだ」。そう両親は感じたようだった。

大阪での暮らしとの違いはたくさんある。

公園や博物館での遊びが、海・山・川に変わった。
あそび方だけではなく、景色だって、友だちだって。

「なんか生活が変わったみたいだぞ・・・」
その時のことは少年にはとても衝撃的で、拓丸さん自身の記憶にも刻まれている。

塩作りを生業にすれば、それまでのサラリーマン生活とは
収入面でも違いが出てくる。

正直、貧乏をコンプレックスに感じていた時期もあった。
でも、両親とのその暮らしは、お金の豊さはなかったかもしれないけど、
生活の豊かさはたしかにあった。

心身ともに「満たされている」、そんな感じ。

お客さんから「土佐の塩丸でパンを作ってみた」、「お菓子を作ってみた」、
「梅干しをつけてみた」という声が届けば、
吉田家の食卓には花が咲いた。

そんな暮らしの中育った拓丸さんは、
13年前に2代目塩守りとして父の仕事を継ぐ。

本当は、中学卒業後すぐにこの仕事に就きたかったけど、
その意志を告げる度に両親に反対されていた。
外の世界を見てほしい、両親はそう思ったのかもしれない。

大学で京都へ行き、その後大阪でダイビングインストラクターの仕事を経て、
ようやくこの町に帰ってきた。

【吉田拓丸さんの「うみべのくらし」】
5:00 起床、出勤

5:30 灘製塩所へ到着。    
    満潮時には海水を汲むことからスタート。
    その後、煙草を吸ったりコーヒーを飲みながら休憩。
    体力維持のため、筋トレをして朝ご飯代わりにプロテインを飲むことも。

8:00 従業員出勤。
    ともに結晶ハウスで攪拌作業を開始。

結晶ハウスでは、木箱ごとに違う塩を作る
ハウス内は雪のように塩が降り積もっている

10:30 佐賀の製塩所へ行き同じように攪拌作業を行う。
    攪拌作業が終了すると、塩に混じった異物をとったり、
    袋詰めをしたり、メールを返したりする。

12:00 お昼休憩

13:00 もう一度攪拌作業のため、灘の製塩所へ

15:00 作業終了。冬場は15時頃。夏場は18時頃が目安。
 ~  書類の整理、行政書類の調整などをして、帰宅

夕方  ビールやウイスキーで晩酌

23:00 就寝

-後編に続く―

公式「土佐の塩丸」https://siomaru.com/

吉田拓丸さん(39歳)
(有)ソルティーブ・2代目塩守り。大阪府で生まれ、3歳から黒潮町に移り住み、家業であった「天日塩作り」の仕事を13年前に継ぐ。毎年春~夏のシーズンになると、週に数回、大月町でダイビングインストラクターの仕事もする。

text:Lisa Okamoto

-うみべのごはん