うみべのあそび

誠実に、真心込めて支えていく(前編)

「とにかく見えてなかったと思うんです。
ものを作る建設業という仕事に
思いを馳せたことが
なかったんじゃないでしょうかね」

そう話すのは、山本建設(株)代表取締役の
山本浩司さん(40)。

祖父の代から続く家業を父・修さんから受け継ぎ
2021年10月に代表に就任した。

取材に答える山本建設(株)代表取締役・山本浩司さん

実家も家業も佐賀にあり、
中学校までを地元で過ごした浩司さん。

その後、高知工業高等専門学校へ進学し
15歳から20歳までの5年間、
地元を離れ青春期を過ごした。


家業を継ぐつもりはなかった。

「基本的には僕は家業をやるつもりはなくて。
やっぱり田舎が嫌いやったがじゃないですか。
もっと広い世界を見てみたいとか、
そういう気持ちやったんやないかな」

高専を卒業後も
地元には帰らなかった浩司さん。
26歳まで、高知市内でパン職人として働いた。

その間に高専時代の先輩でもある女性と結婚し
長男を授かる。
これが地元に帰るタイミングだった。

「彼女も中村(四万十市)の出身だったし、
やっぱり親のそばでっていうのはあって。
僕もそろそろ潮時かなって思ってたんで、
その時迷いはなかったかな。
戻ってこない確固たる理由とか、
どうしてもこれがやりたい、
僕にしかできんみたいなことがあれば
違ったかもしれないけど・・・。
洋次くんの記事も読みました」

以前取材させていただいた
カツオ船の船頭・明神洋次さんは
浩司さんの同級生。

家業を継ぐという共通項に対し、
それぞれがそれぞれに
似通った思いを抱いていたことがわかる。


27歳の時に地元へ戻り、
山本建設(株)の社員となった。

「契約の仕事をしたら
業界のことが1番わかるだろう」と、
最初に任された仕事は、
契約に関する事務だった。

27歳という少し遅れたスタートに、
父・修さんからすれば、
現場の作業員をするには遅すぎるだろう
という判断だった。

でも、
3カ月ほど契約事務の仕事をした浩司さんは
現場作業に行きたいと申し出る。

「今から作業員は遅いかもしれんけど、
とりあえず作業してみんことには
土木が好きかどうかも
自分の中で判断がつかないなと思ったので、
「作業からやらしてもらいたい」って」

しっかり自分の目、自分の体験で
掴んでいこうとする
真面目な性格が表れている。


それから土木作業員として1年半、
その後、現場監督を5~6年務め、
会社の内部へ戻り
積算業務などを2年間ほど担当し、
一昨年、代表へ就任した。

2021年、代表取締役就任時のお写真。
前列右から2番目が山本浩司さん。
(写真:山本建設(株)提供)

子どもの頃は家業を継ぐ気は全くなく、
地元に帰ってくることにも
積極的ではなかった時代がある。

でも、10年ほど前にこの地へ戻り、
現場の作業員から始め、今は代表を務める。

昔を振り返り、彼から出る言葉は、
「見えていなかった」ということ。

「ユンボが好き、ダンプが好きとか、
小さい頃だったら
そういうこともあるのかもしれないけど、
僕は全然興味もなくて。
でもね、そういうことだけじゃなくて、
全然見えていなかったんでしょうね、
建設業というものが。

ものを作る建設業というものに
思いを馳せたことがなかったんじゃないでしょうかね」

小さい頃から
祖父や父が働いていた姿も知っているし、
声をかけてくれる社員のおんちゃんもいた。

でも、実際に中に入って働き、
そのおんちゃんたちと同じ時を共有したからこそ
わかることがあったのかもしれない。


浩司さんは、
現場に入ってまだ間もない頃の思い出も
語ってくれた。

「金属の道具を先輩がバラすき、
それをある場所に
まとめて置いちょってくれって言われて。
猫車に入れて何往復も何往復も
その場所まで運んじょったがやけど、
その先輩が戻ってきて
ユンボの大きなバケツの部分を
目の前に持ってこられて、
「これに全部入れろや」って。
一瞬で持っていくきね。
僕が何回も何回も往復しよった道を」


浩司さんは普通の頭で考える。
日常のスケールで考える。
でも、建設業のスケールは違う
ということに気付かされた
何ということもない現場の日常の一コマだった。

山本建設株式会社」(黒潮町佐賀2988番地)
黒潮町佐賀地域に拠点を置く総合建設企業。現在の山本浩司代表取締役の祖父である山本正好初代社長が1951年に創業。一般土木工事、海洋土木工事、大型建築工事など、国や県から受託する公共工事をメインに行う。

Text Lisa Okamoto

-うみべのあそび