「21の頃やったかなあ。
その、隣の福吉丸の船頭さんが
あけみさんの旦那さんと仲良かって。
それで紹介してもらって」
1月中旬の上川口港。
友栄丸の向かいに停泊している「福吉丸」。
浅野さんの漁師の道は
ここから始まった。
「最初、まあ言うたら1番下っ端やけん、
魚釣るとこまでいかんけんね。
カツオを釣るためのエサ運び。
それをねぇ、4年くらいやった。
下に誰かが入ってきたらええけど、
入って来る人がおらんかったけん」
「早く釣りたいなぁ」
そんな思いを抱えながら、
そうこうしていると後輩が入って来た。
ようやく、カツオが釣れる。
浅野さんの役割は
「無線士」と言われる仕事となり、
1日に4~5回、
決まった時間に他の船と無線でやり取りをして
互いの現在位置や水温、
どのくらい釣れたかなんかを帳面へ記録し
船頭(※)に渡すということを4~5年務めた。
それから「船長」となり、
福吉丸を降りるまでその任務を担った。
「でね、船頭さんが身体が悪くなって
合間合間で1カ月とか休んだりしよったけん、
その時に、
代わりに僕に船頭の経験もさせてくれて」
なるほど。
その時の経験が
独立するときにもきっと役立ったんだな。
そんな風に思って、そう投げかけると、
少し間が空いた。
「うん。そうやね」
噛みしめるように、思い返すように
言葉が返ってくる。
「僕はもう、福吉丸に育ててもろうたね」
浅野さんを応援してくれていた人は
ほかにもいる。
「佐賀に太幸丸っていう船があるがやけど、
そこの船頭さんがすごく可愛がってくれて。
独立する前の3年くらいかな。
一緒に漁の話をしたり、
港で一緒になったらご飯食べに行ったり。
呑み助やけんね、
僕一切飲まんに、めっちゃ連れていかれて」
「その人が「自分で一回やってみれぇ」って
ずっと言うてくれよってね」
可愛がってくれていた
太幸丸の船頭さんは
不慮の事故で亡くなってしまうのだけれど…
「その後すぐやったね。
福吉丸が新しい船にかえるっていうタイミングで
独立させてもろうて。
古い船を僕がわけてもろうた」
育ててもらった船に
浅野さんは「友栄丸」と名前をつけ
船頭として
自身の船をスタートすることになった。
友だちの「友」に「栄」という字で
ゆうえいまる。
「友だちみんなが栄えたら、
自分も栄えられるろうって。
あとはお姉さんの名前が友美。
そんなところから」
大切な人たちが周りにいて、
浅野さんが
その人たちを大切にしてきたくらしが
込められている。
ただ、最初はみんなに反対された。
「絶対無理やけん、やめちょけって言われて。
もう大反対。
2年で潰れるけん、やめちょけって
もういろんな人に言われた」
それでも
「結構一人で突っ走っていったね」。
今は日本人4人、
インドネシアの技能実習生5人の船員を携え、
来月、友栄丸は5シーズン目を迎える。
「僕は目標があって。
船員さんの給料、1人1,000万円。
これがとりあえずの目標」
そのために、水揚げも増やし、
新しいことへの挑戦も視野に入れている。
「カツオも年々減っていたり、
単価も上がったり下がったり。
やけん…
ただ魚釣って、市場に卸すだけじゃなくって
自分で取引先を探すとか、
自分のお店をやってカツオを売るとか」
静かな船頭だけれど、
突っ走ってみたり、チャレンジしてみたり、
根っこにあるそんなキャラクターが
実は漁師にぴったりなのかもしれない。
最後まで優しい笑顔を見せてくれた浅野さん。
家族や知人、友人、そして船員たちを
大事な存在としていることが
表情に溢れている。
「ま、とりあえずやってみろうかで」
笑顔の向こうに、静かな野望も。
※「船頭」はカツオ船の船員の中で一番上の役割。全体の長。「船長」はいわばその下の役割で、船頭に何かあった時に代わりができる人。普段は港への出入り、エサ場の指揮を執る。
浅野伸也さん(42)
浮鞭地区出身。(株)友栄 (黒潮町浮鞭2103番地1)代表。カツオ一本釣り船「第八友栄丸」の船頭を務め、上川口港を拠点に、3月~11月頃までカツオの一本釣り漁を行う。幼少期から釣りが好き。小中高とサッカーに注力した後、21歳で漁師になることを決意。「福吉丸」で15年ほどカツオ漁師としての経験を積み、4年前に独立。福吉丸の船を譲り受け、日本人とインドネシア人の船員9名とともに「友栄丸」として漁に出る。
Text Lisa Okamoto