うみべのあそび

見える景色に今日もイメージとガラスを膨らます(前編)

「上手にできないところ。できないから、作りたいから、やる。作れるようになりたいから延々やってる」

ラッキョウ畑と入野海岸を望む最高のロケーションで、熱い炉の中で溶けていくガラスと日々向き合うのは、「海辺のガラス工房kiroroan」の植木栄造さん(59)。40歳で黒潮町入野に自身の工房を開き、まもなく20年を迎える。

海辺のガラス工房kiroroan・植木栄造さん
少し恥ずかしそうにしながらもとびきりの笑顔を見せてくれた
kiroroanの工房へ続く道は
頭上を木々に覆われ光が優しく降り注ぐ
工房の建物の間や窓からはラッキョウ畑と入野の海岸が望める。
取材時の9月中旬はちょうどラッキョウの植え付けが行われていた。

植木さんは土佐清水市の海育ち。小さな頃から砂利が転がる浜辺が遊び場だった。

「俺、清水の浜育ちなんで、子どもの頃から『遊ぶ』って言ったら海で泳いだりして。なので、浜に転がってるシーグラスとか好きだったし、自分の中の『好き嫌い』の『好き』の方にガラスは入ってたみたいですね」

幼少期の育った環境から、自然と植木さんのアイデンティティには「ガラス」が入り込んでいたのかもしれない。ただ、地元の高校を卒業後、植木さんが最初に選んだ道はガラスではなかった。

「高校を出てから地元を離れて、大学浪人で東京にいたんですけど、2年くらいは本当に遊んでました。すんません」

ばつが悪そうに謝りながら笑う植木さん。浪人生として東京へ出ていくも、最初の2年間はふらふらと遊びながら暮らしていたという。「さすがに3年目も遊ばせてくれとは親によう言わん」と、当時の知人に紹介され編集者を養成する専門学校へ通うようになる。その半年後、今度は「あそこのデザイン事務所に行かないか」と同じ知人に投げかけられ、それから5年ほど東京のデザイン事務所で働いた。

雑誌を作ったり、スーパーのチラシやポスターを作ったり、事務所の代表と社員1名、それに植木さんの3人体制で忙しい日々だったと振り返る。

「美大を卒業して『自分はこんな絵を描きたいんだ』っていう人よりも、何も知らない奴の方がいいって、事務所の社長が俺を拾ってくれたんですよ。当時は3カ月くらいアパートに帰れないような生活をしていました。すごい忙しかったけど、仕事を覚えさせてもらったし、出来の悪いこんな奴を投げ出さないで、放り出さないでいただいたので、とてもありがたい職場でした」

そんな矢先、時代の流れに変化が訪れる。Apple社製のOS「mac」の登場だった。

デザイン業界で働くのならmacを使えるのは当然ということが段々と世の中の主流になり、何事も「手作業」の植木さんには難しい状況になった。

「ガラス作りを始めたきっかけ、元々は、パソコンを触りたくなかったんです。それまで全部手作業でやってきたデザインの仕事も、macが使えないとできないってなって。それに、一日中パソコンの前に座ってっていうのは性に合わなくて。そんな時に、『じゃあ、自分の手を動かして何かを作って、ゆくゆくは高知の田舎に戻ってもできる仕事を』って考えた時に、ガラスだったっていう話です」

「作るものは何でもよかった」と話す植木さん。それがガラスではなくても、陶器だって、木工だって、故郷に帰って自分の手で生み出したものでご飯が食べられるのであれば良かった。ただ、幼少期に浜辺で見つけたシーグラスの思い出が大人になった植木さんの心のどこかにもあったようで、ガラスを選び歩んでいく・・・。

デザイン事務所5年、東京7年の暮らしに区切りをつけ、それから植木さんの「kiroroan」への道のりがスタートした。

海辺のガラス工房kiroroan
黒潮町入野で吹きガラスのガラス作品を制作する工房。土佐清水市出身の植木栄造さんが営み、年間ほとんどの時間、制作に向き合う。「kiroroan」はアイヌ語で「楽しい」の意。工房の目の前に広がる海や木々の景色から着想を得て、日々制作を進める。グラス作りの体験も受付している。

text Lisa Okamoto

-うみべのあそび