うみべのあそび

勘と覚悟と(前編)

「今回は特別編でやってもらわないかんね。
“海上のくらし”言うて。

僕、海辺やなしに海上で暮しようき、
海辺のほうはあんまり専門やない。
海上のことやったらなんぼでも言えるけど。
ははは」

第23佐賀明神丸の漁労長を務める
明神洋次さん(40)。

「ははは」と大きな声で笑いながら冗談を言う
陽気なキャラクターの漁労長。

佐賀港の前で笑顔を見せてくれる
第23佐賀明神丸漁労長・明神洋次さん

洋次さんの祖父・亀次さんは1955年、
明神丸として初めてカツオ一本釣り漁に出た
明神水産の創業者。

また、父・正一さんは
現役時代、水揚げ高の日本一に10回以上輝き
「伝説の漁師」と言われた船頭。

洋次さんの母方も漁師の家族で、
小さい頃から
”生粋の漁師の家・漁師町”で育ってきた。

カツオ漁は1年の大半を海の上で過ごす。
子どもの頃、父親はほとんど家にいない。

毎年2月、
佐賀の港を離れていくカツオ船を
見送る家族の姿を見て、
「寂しくないのかなぁ。寂しいよなぁ」なんて
勝手に思ったりする。

でも、
「家族は多いし、友だちが来たり、
人が集まる家なんですよ。
だから、
あんまり寂しいっていう感じやなかった」

黒潮町の冬の風物詩でもある
カツオ船の出港シーン

そんな洋次さんが
自身も漁師になることを意識したのは
高校卒業の頃…

ではなくって、
実は小学生の頃から。

「当たり前でしたね。
どんなことをしても
最終的には漁師になるがやろうなぁ
っていうイメージはありました」

まだ洋次さんが3~4歳の頃から
父親には
「洋次は船頭、慶(兄)は会計」と言われ、
周囲からも同じように言われて
知らぬ間に、自然と覚悟が決まっていた。

「やき、僕は大学に行きたかったがですよ。
どうせ最後には漁師やし、
それまでの間、めいっぱい遊びたいって」

いつかは必ず漁師になる、
ならなければいけない。
自身の宿命を理解していたからこそ
その前に、漁師ではない世界を満喫したかった。

でも、20歳になる年。

「同級生がね、
先に「漁師やる」って言いよったき、
「僕何しようがやろうか?」って」。

埼玉県で浪人生活を送っていた洋次さんは
同級生の背中を見て
漁師になる覚悟を決める。

カツオ漁の世界へ
ついに足を踏み入れた洋次さん。

「漁師になって最初はエサ運びだけど、
釣る仕事をさせてもらいだして1年後、
洋次に会ったらもう腕とか背中とか
厚みが全然変わってて。
背筋力が300kg。松坂大輔と同じだったよな」

洋次さんの同級生で小中高をともにしたという
(有)ソルティーブの吉田拓丸さんが
その過酷さを
イメージしやすく話してくれたけど、
洋次さんにとっては、
「そこまで」だったみたい。

やっぱり、明神の血筋なのだろうか。

「「もう本当にキツい」とか、
なんちゃあ思わんかった。
まぁ、やりようことを見れば
大変ながやおうけど。
自分におうちょったがやない?
漁師という生活が」

明神洋次さん(左)と吉田拓丸さん(右)。
同級生トークで洋次さんの人柄が溢れ出てくる。

「沖の方が楽ながやない?」
笑ってそう言う洋次さん。

そう言えるのは、明るい性格と
小さい頃から”そういう”環境に囲まれていて
いつの間にか
自然と覚悟が決まっていたからかもしれない。

2022年。
第23佐賀明神丸は
水揚げ高3億円を超える記録を残した。

「釣らないかん。釣ることが大前提。
水揚げ量を上げることが。
やけん、あんまり休みとうない」

現在は船頭を務める洋次さんだけど、
過去には
父・正一さんが船頭を務める船に同乗し、
父の仕事ぶりを間近で見てきたこともあった。

その姿が
今の洋次さんのスタイルにも反映されている。

生まれた時から
明神水産という会社が地元にあって。
祖父、父が漁師で。
親戚だってみんな漁師の血筋で。

自然と海の世界へ溶け込んで、
今、20年が経とうとしている。

水揚げでカツオを両手に持つ洋次さん(昨シーズン)。
(写真提供:明神水産(株))

―後編に続く―

明神洋次さん(40)
第23佐賀明神丸・漁労長。佐賀地区出身で、祖父・父と代々カツオ漁師の家系に育ち、自身も20歳でカツオ一本釣り船「明神丸」へ乗船開始。8年前に第11佐賀明神丸の漁労長となり、現在は第23の漁労長を務めて4年目。昨シーズンは水揚げ高3億円の目標を達成。同じ規模の船では最年少記録。

Text Lisa Okamoto

-うみべのあそび